長良川の下流域に、70年近く川漁師として生きてきた兄弟漁師がいます。
二人の名前は、大橋亮一さんと修さん。大橋さん兄弟はサツキマス漁の名人として、また長良川を代表する川漁師として、その名を全国に知られています。
大橋さん兄弟が暮らし、川漁の拠点とする羽島市小熊町は長良川の河口から約38キロの地点。
19年前に出来た長良川河口堰による環境変化の影響は大きく、アユやウナギ、サツキマスをはじめ魚の数は激減しました。サツキマスは川から海へ回遊するアマゴで、長良川を代表する川魚。サツキが咲く頃に遡上することからこう名付けられたそう。現在の捕獲量は20年前の10分の1以下と、とても貴重な魚になりました。
三重県長島町に作られた長良川河口堰は、その建設をめぐる大激論を経て、1995年7月から運用を開始。
河口堰は河口から約5キロの位置にあり、淡水と海水が混じり合う汽水域をゲートで止め、堰の上流を淡水に、下流を海水に分けるもの。
汽水域を分断したことで川の流れが遅くなり、川床にヘドロが溜まる、魚が住まなくなるなど、長良川にさまざまな弊害を与えています。
川環境の改善のため、閉じられたゲートの解放を大橋さんたち川漁師や有識者らが水資源機構に働きかけていますが、塩害発生への懸念を理由に実現していません。
「昔は宝の長良川やった。今は滅びゆく長良川や」。
開口一番、厳しい言葉をサラリと口にするのは弟の修さん。兄の亮一さんは今年80歳、修さんは78歳になります。
二人は祖父、父と代々続く川漁師の家に生まれました。小学生の頃、兄弟で川に行きサツキマスを獲ってくると、名漁師だった父親に褒められるのがとても嬉しかったといいます。それが二人の漁師人生のはじまり。「サツキマスはわたしら兄弟の原点なんやわ」と亮一さん。
二人三脚で70年近く川の上で生きて来た大橋さん兄弟は、あらゆる漁法を身につけており、長良川の川底まで知り尽くしています。
「漁師やるんなら、川の底を自分の家の中のように見んでも分かるくらいよう覚えとけ、というのが親父の教えやったからね」と修さん。
河口堰の運用後、川の様子も漁獲量も一変しましたが、二人はずっと変わらず川漁を続けています。
春はサツキマス、初夏はテナガエビ、秋はモクズガニと季節により漁場と漁法を変え、一番力が入るのが春のサツキマス漁。
冬の間は網など漁具の準備をし、3月になると1ヶ月かけて川底のゴミを取り除きます。大変な作業ですが、漁の際に網がスムーズに川底を流れるようにするため。
そして5月、伊勢湾からサツキマスが遡上するとシーズン本番です。川に網を流しながら獲る「トロ流し網」という伝統漁法で、川を遡るサツキマスをねらいます。この漁法を行うのは、今では大橋さん兄弟だけだそう。
「好んで入った漁師の道やで、全然ストレス溜まらんし、川に行くと毎日新鮮な気持ちになって、年齢を忘れてまうね。魚が獲れんかったら今でも本当に悔しいし、寝ずに原因を考える。
なんでもトコトン努力して、トコトン頑張る。その繰り返しや」(修さん)。
「身体の続く限り、やめるときまで続ける。漁はわたしらの原点やから。
やめたら存在の意味がなくなってしまう」(亮一さん)。
亮一さんは現在、環境講座の講師として市民や子供たちに川を守ることについて話したり、河口堰問題に関する発言者としても活動しています。
「清流長良川ってよく言うけれど、本当に清流やろうか? よう見てみい。ゴミだらけや。
河口堰が出来てからこのあたりの川は流れんくなって、湖みたいや。魚もおらんようになった。
川は流れてこそ川。子供の時分、長良川は本当にええ川やった。
わたしらが元気なうちに何とか河口堰のゲートを開けてやって、昔の自然の川に戻してやりたい」。
長良川を愛し、漁師として川の移り変わりの全てを見てきた大橋さん兄弟。
川への思いとお話は尽きることがなく、まさに豊かだった長良川の生き証人です。
「長良川は岐阜の宝物」と言った二人の言葉が、取材後も深く胸に響いています。
2014年5月21日取材時の情報になります。
ライター : 梅田美穂