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【美濃加茂市特集】母・えんねさんのお菓子を焼く佐野綾目さん
2013.03.11 更新

戦禍を逃れ、伊深に疎開

綾目さんが焼いた、母・えんねさん直伝のお菓子

佐野綾目さんが住んでいるのは美濃加茂市の郊外の伊深町。
岐阜県の特産品「堂上蜂屋柿」で知られる蜂屋町はお隣りにあり、
臨済宗妙心寺派の古刹・正眼寺のある所としても知られている。
神戸市で生まれ育った綾目さんが戦禍を逃れ、
父・佐野一彦さん、ドイツ出身の母・えんねさん、姉の春枝さんとともに
伊深に疎開してきたのは昭和20年の春。
以来、伊深が気に入って終の棲家と定めた両親や夫・康雄さんとともに伊深に暮らすこと70年近く。
今回は母・えんねさん直伝のお菓子と
それにまつわるエピソードを取材させていただきたく、おうちにうかがった。

(写真左)17歳のえんねさん(ハノーファにて。エルンスト・ブレヒト撮影)。
1901年、ドイツのケルンに生まれ、ベルリンの「ヘラスベルク古書籍商会」に勤務した後、
1933年、「京都日独文化研究所」のドイツ語講師として来日。
翌年、神戸商科大学(現・神戸大学)の助教授であった佐野一彦氏と結婚。
1945年、伊深に疎開し、永住。戦後、各地でドイツ料理の講習会を開いたり、
「ノンちゃん雲に乗る」(石井桃子作)のドイツ語訳を刊行するなど、
日独のかけ橋として尽力。1995年、93歳で永眠。

(写真右)佐野一彦氏(1932年 ベルリンにて)。
1903年、東京商科大学初代学長(現・一ツ橋大学)であった佐野善作氏の長男として、東京に生まれる。
哲学者。民俗学者。えんねさんとはベルリン留学時代に会ったこともあるという。
伊深に疎開後は里の人々の様子を撮影したり、克明に日記をつけるなど、
伊深の暮らしを記録することに尽力。えんねさん同様、伊深をこよなく愛した。1997年、永眠。

(写真)佐野一彦・えんね夫妻の次女・綾目さん。1936年、神戸に生まれる。
両親・姉とともに伊深に疎開。1965年、康雄さんと結婚。
地元の友人たちとともに「伊深親子文庫」を主宰。美濃加茂市教育委員長を務めたこともある。

「高安天火」で焼く「えんねさんのお菓子」

佐野家の東にある星宮神社。綾目さんと康雄さんはここで結婚式を挙げた

日本が大好きだったえんねさんが建てた、酒樽で造った茶室。
伊深でも時間があればお茶の稽古に通った。お茶の作法の意味が好きだった。
ここでお茶を立てて、もてなすこともあったという。

綾目さんのうちは人里離れた伊深の最奥といってもいい。
元は真言宗のお寺が建っていたとかで、母屋の西にある古びた弘法堂の縁側では、
猫がのんびりと昼寝をしている。東には綾目さんと康雄さんが結婚式を挙げた星宮神社が建ち、
今も昔の面影を残している。とにかく、山の麓の静かな所だ。
予定よりもかなり早く到着した私たちを、綾目さんは満面の笑顔で迎えてくれた。
ちょうど「えんねさんのお菓子」を火にかけたところだそうで、
キッチンからは焼き菓子の良い香りが漂ってくる。

「1時10分にこね始めて30分ほどで天火に入れ、焼き始めるの。
火加減にもよるので、焼いている時間はだいたい1時間弱」と説明してくれる綾目さんはとても若々しい。
蓋をとると現れたのは、特大のクグロフ型にも似た
アルミ製の天火に収まったきつね色のパウンドケーキのようなお菓子。
みんなから「えんねさんのお菓子」と呼ばれ、特別な名称はないそうだ。

鍋は「高安天火」と呼ばれ、戦時中の飛行機の残りの材料で作られているという。
どうりで頑丈なはずだ。残念ながら今は廃番になっている。
えんねさんが使っていた天火はどこへともなく姿を消して見つからないが、
2代目「高安天火」は、佐野家では健在である。
「お箸は2本も使ったら怒られるよ。1本でええの。
こうしてお菓子に刺してついてこなかったら中まで焼けとるよ。
ほら、こうして包装紙の上にストンとやるの。
鍋底にくっついとるところは、えんねさん愛用のゾーリンゲンのナイフで
「どうぞ、うまくいきますように」って祈りながらはがす。
底板を押す要領でひっくり返すといいよ」と、綾目さん。
言われるがまま、こわごわお菓子を皿の上に乗せると、
実に重量感たっぷりの「えんねさんのお菓子」ができあがった。

高安天火。岐阜県各務原市にある「高安株式会社」が製造していた。

えんねさんのお菓子」を切り分ける。手前が綾目さんの夫・康雄さん。
左側が「高安天火」をもらった明日香さん。奥は筆者。

お菓子を食べながら語る両親の思い出

お菓子をいただきながら、綾目さんは私達の質問に答えてくれた。
「父の一彦は控えめな人でしたよ(笑)。
母が亡くなったのが平成6年、父はその2年後に亡くなりました。
母の方が積極的で、法事でもなんでも先に手を挙げて『私、行ってまいりますから』って(笑)。
父は大学教授でしたが、国学などをやっていたので戦後公職追放になり、
母が講演会・講習会・翻訳の仕事・大学のドイツ語の講師などをやって家計を支えていました」

ドイツに来る前、ベルリンの古書店に勤めていたえんねさんは、
休暇が来るたびにヨーロッパ中を自転車で回ったというほど、大の自転車好き。
また、人には絶対負けないという気性の持ち主だったが、伊深の土地と人々を深く愛し、
綾目さんが高校生の時、ドイツの母に会うために里帰りしたときは、
伊深の人々がみんなで見送ってくれたという。
また、戦後、疲弊した県内外の農山村をまわってドイツのジャガイモ料理を教えたり、
「戦争に負けたから仕方がない」と嘆く人々には、「仕方がある!」と励ました。
一彦さんは外へ出かけることの多かった妻えんねさんを
優しく、あたたかく見守り、娘たちと留守を引き受けた。
母がいなくて寂しがる綾目さんを、
一彦さんは「おかあさんは今が一番輝いている時なのだから、
花の咲く時期に咲かせてあげなさい」と優しく慰めたという。

焼きたての「えんねさんのお菓子」。
中には干しブドウやナッツなどが入っている。素朴なドイツの家庭料理だ。

誕生日には庭の花を飾り、命のろうそくを立てる「おかあさんのお菓子」

わたしたちにとっては「えんねさんのお菓子」だが、
綾目さんにとっては「おかあさんのお菓子」である。
「母はお客さんが来られるときや家族の誕生日、
3時のお菓子がなくなると必ずお菓子を焼きました。
家族の誕生日には、庭に咲いている花をたくさん飾るんです。
そして、穴のあいている真ん中に「命のろうそく」といって、1本だけろうそくを立てました。
うちでは父は日本の風習を、母はドイツの風習を守っていたため、
イースターやクリスマスもやればお盆やお正月もやるというふうで忙しかった。
正眼寺の老師が「おかあさんのお菓子」が大好きで、
母のいない時に姉と二人で苦労して作ったこともあるの」と、綾目さんは目を細める。

午前10時と午後3時、夜の9時と日に3回のお茶は、
ずっと続いた佐野一彦・えんね夫妻の日課だったという。
一彦氏は妻の手作りのお菓子にどんなコメントを寄せたのだろうか。
佐野家を辞す時、綾目さんは使わなくなった高安天火を、撮影担当の明日香さんにくれた。
取っ手などが壊れているので修理が必要だが、直ったら佐野家でお菓子を焼く約束だ。

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佐野綾目さんとは不思議なご縁で知り合うことができ、ひと月に一度、「浮世往来」というお手紙をいただいています。以前「岐阜新聞」で「素描」を書かれて以来、ずっと書き続けておられます。えんねさんのお菓子は素朴であたたかみがあって、とてもおいしいです。えんねさんは有名な方ですが、綾目さんを通してえんねさんの妻として、母としての横顔を知ることができました。

(取材・原稿作成:松島頼子 撮影:雨宮明日香)

詳細情報

お問い合わせ 佐野綾目さん
美濃加茂市伊深町2637-3

2013年2月7日現在の情報になります。


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